主の恵みは十分である

https://speeches.byu.edu/jpn/talks/brad-wilcox/his-grace-is-sufficient/


ブラッド・ウィルコックス

2011年7月12日




    恵みとは、


      いつかそのうちに頂けるものではなく、


    今受け取れるものなのです。


  最後の仕上げではなく、


完成者の業なのです。




私はこのように答えました。

「イエスは私たちの足らないところを補うのではなく、すべてを変えるのです。

主の恵みはギャップを補うのではなく、私たちの全てを満たすのです。」




「いやいや、そういうわけではありません。


あなたにはやることがたくさんあります。


でもギャップを埋めるためじゃありません。


わたしたちは皆、復活します。


皆神のみもとに戻ります。




あとは

  私たちの従順によって

            決まりますー

          どんな肉体に復活するのか、

        神のみ前で

      どれほど心地よく居られるか、

    またそこにいつまで

  留まって居たいと感じるかです」

と私は答えました。





        従うことによって
    私たちは正義が要求するものを
支払っているわけではないのです。


これっぽっちも支払ってはいません。



そうではなく、

    イエスのみ言葉に従うことで、

         キリストのような生き方をし、

       そうすることによって

     イエス・キリストが

   してくださったことに対する

感謝の気持ちを表しているのです。




練習することは、子供が母親からもらったすばらしい機会を利用して、より高いレベルで人生を送る手立てにするということです。

母親の喜びは、お金が返済されることではなく、自分の贈り物が使われること、つまり子供の成長を見ることです。

「練習しなさい」と子供に口を酸っぱくして言うのはそのためです。




より高いレベルで生活することを選択すれば、

    どれだけ人生がよりよいものになるかを、

        分かっていないのです。


同様にイエスは正義の求める代価を支払われたのですから、

   彼は「わたしについてきなさい」(マタイ4:19)、

     「わたしの戒めを守りなさい」(ヨハネ14:15) 

          と言うことが出来るのです。


わたしたちが

   キリストの視点

        物事を見ていないからではないでしょうか?

    イエスが自分にどうなるよう望んでおられるのかが、

 わたしたちにはまだ理解できていません



ブルース・C・ヘーフェン長老は

「偉大な仲保者が私たちに悔い改めを求めるのは、

彼が正義に対して負債を支払う代わりに

私たちが彼に『返済』しなければならないから『ではなく』、

悔い改めが、

救い主の助けによって

わたしたちを聖徒の人格の道へと導く

成長過程を開始するからである」と言っています。

へブル12:2


「聖なるメシヤの功徳と憐れみと恵みに」ひたすら頼りなさいという教えがあります (2ニーファイ2:8)。

これらにひたすら頼ると、キリストは人に何もお求めにならないのではないことが分かってきます。

むしろ、キリストが人に多くをお求めになる理由が分かり、お求めになることがすべてできるようわたしたちを強めてくださることも理解できるようになります (ピリピ4:13 参照)。

恵みとは、神が高い期待をお持ちでないことではなく、恵みとは、神の力が存在することなのです (ルカ1:37 参照)。



若者の皆さん、

            辞めないでください。

            努力を続けてください。

            逃げ道や言い訳を探さないでください。

            主と、主の完全な力を探し求めてください。

          人のせいにしないでください。

          助けてくれる人を探してください。

        キリストを求めるならば、

      人に能力を授ける力と神の助け、

    つまり

  主の驚くべき恵みを

感じるようになるでしょう。









michio😀 2024/6/14 22:02:55

この記事は とても わたしたち 日本人に 

スッと入る お話です


興味をもって 読み続ける そんな 教え

わたしの💝は 言っています











0コメント

  • 1000 / 1000