日本が植民地化されなかった理由


https://youtu.be/A7sKwYuVeSI?si=a_8dHLB2Uj8WMWFK


元寇に対峙した武士は



ふと 思った 誰が 戦ったのか と



鎌倉時代、時の鎌倉幕府は海の向こうから二度にわたる侵攻を受けました。


1274年の文永の役と1281年の弘安の役。

日本史上最大級の危機といわれる元寇(蒙古襲来)です。

当時の元(モンゴル帝国)は、その領土が地球の陸地の約17%、
世界人口比率では約26%に達していたと伝わる強大国。

やがて世界を制覇するだろうと恐れられていました。


そのような大国の侵攻を、日本軍は二度とも本土に入れることなく博多湾で撃退し、
後の世に神風神話をもたらしました(諸説あり)。


なぜ元は日本を攻めてきたのか。


本当に神風は吹いたのか?その伝承を紐解くと見えてくるのは、
神風ならぬ鎌倉武士九州御家人たちのしたたかなまでの強さでした! 


天皇、将軍、御家人、多くの民が一致団結して防いだ元の侵攻。

今に伝わる「蒙古襲来合戦絵巻」や各地の遺構を訪ねながら、博多湾で果敢に戦った鎌倉武士たちの活躍を振り返ってみましょう。



当時の日本は鎌倉幕府8代目執権・北条時宗の時代で、時宗はまだ若く、叔父の北条政村が補佐、後見していました。

南宋から来日した僧侶を通じて元に関する情報をそれなりに得ていた幕府でしたが、日本国の外交は朝廷が権限を持っていました。



元を蛮族と見なす朝廷が「御所に入れて国書の授受を行う必要はない。

太宰府


対応して帰国させればいい」と判断し、
その上で幕府に危機感を持って防衛体制を整えていくよう求めました。

幕府もまた日本の国際貿易港博多を含む筑前・肥前国に所領を持つ東国御家人の九州下向を命じたり、守護を入れ替えたりなど、元の侵攻を想定して備えを進めていきます。

亀山上皇は神社仏閣での祈願を行い、幕府は御家人の戦力調査をするなど国を挙げての国防意識が高まっていきました。



大宰府政庁:7世紀後半から12世紀後半、アジア大陸の窓口として、
      西の都の行政機関として九州を統括した政庁の遺構。



水城跡:福岡県太宰府市・大野城市・春日市にまたがる
       海からの攻撃に備えて築かれた古代の城。

    土塁、城門跡、外堀跡の遺構がある。



蒙古軍は今津方面に上陸し、長浜、蛭浜を経て百道浜に侵入、翌日には高麗軍も百道浜に上陸。

博多の西側にある祖原山に本陣を置き、赤坂方面で日本軍との激戦が開始されました。

やがて元軍の主力2万が壱岐の浜に上陸。

戦いは次第に激しくなり、櫛田神社筥崎宮に火が放たれ、博多の町は炎に包まれました。

日本軍は苦戦を強いられながらも粘り強く応戦し、少弐景資が放った矢によって元の副将、劉 復亨(りゅう ふくこう)が負傷(これが元軍退却の一因となったともいわれます)。



日没を迎え、日本軍は水城方面に後退しました。

翌21日、苦戦を覚悟しつつ出陣してきた日本軍は予想もしなかった光景を目の当たりにします。

博多湾に元の軍船が一艘も見えなかったのです。

思いもしない元軍の退却でした。



さらに、退却中の元軍が博多湾を出た直後に突如、暴風雨が起こり、元軍の軍船の半分が沈没する事態になりました。多くの将兵が溺死したといわれます。



歴史は 動く


日本に大きな被害もたらした文永の役

次の襲来に備えて、鎌倉幕府は九州の御家人に博多湾沿岸の防衛強化を目的とした石築地と呼ばれる石塁の構築を命じました。

朝廷と幕府、そして九州御家人と民が一体となって、工事は建治2年(1276年)3月から翌年の初めまで突貫で行われました。

沿岸から太宰府、大野城市、春日市にまたがって延びる総延長20kmの石塁は高さ約2mと低めながら強固で、元軍の上陸を阻むに十分な威力を発揮しました。



弘安4年(1281年)5月に高麗の合浦を出発した元の東路軍(蒙古軍・高麗軍)は、前回と同じように対馬と壱岐を蹂躙した後に博多湾に侵攻してきました。

そこには万全の構えで待ち受ける日本軍の姿がありました。

頑強にして長大な石塁、色とりどりにはためく無数の旗さしもの。

国土を守ろうとする熱い意志が長城のように連なる光景は、長い航海を経てやって来た元軍の士気を下げるには十分でした。

この石塁は復元したものも含めて今も博多湾の各地に残っています。




弘安4年(1281年)5月、元軍は前回の3倍以上の15万人近い兵を乗せた世界最大級の船団で再度、攻め寄せて来ました。

船の数は先遣隊の東路軍900艘、主力隊の江南軍3,500艘。第二次蒙古襲来、
    2カ月余にまたがる「弘安の役」の始まりです。

元軍は長期戦に備えて何と錨(いかり)の代わりにレンガや石、上陸してから使うであろう石臼、鍬や鋤まで生活用品を満載していたといわれます。

勝利を確信した上で、兵士を永住させるつもりでいたようです。

だが、防塁が期待以上の効を奏し、本土上陸がかなわない元軍は6月6日、防塁のない志賀島周辺を停泊地としました。




6月8~9日、日本軍は海路と海の中道づたいの陸路二手に分かれて東路軍を攻撃。

(この時、竹崎季長が海路からの攻撃に参加し、活躍)。

元の船田は海の上で長期の籠城状態となり、2年前に元に滅ぼされ難民となった南宋の兵、属国・高麗の兵など国や人種も様々の寄せ集め軍団は、行動の自由が利かない船の上で、だんだんと戦意を喪失していきます。

一方、敵に一歩も本土の土を踏ませまいとする日本軍の士気は高まる一方で、元の軍船に死体や糞を投げ入れて疫病を広めたり、火を投げ入れたりとゲリラ戦も活発に行われたようです。

その後、東路軍は志賀島を放棄して壱岐へ退却しましたが、合流期日になっても江南軍は現れません。

この間に疫病が蔓延し多くの死者が出たといわれます。




6月29日、7月2日、壱岐で日本軍が東路軍と合戦。

苦戦した東路軍は江南軍が平戸島に到着した知らせを受けて、合流するために壱岐を離れました。

その後、鷹島で合流。

7月27日、鷹島沖での両軍の海戦が始まります。

守備側だったはずの日本軍が攻勢に転じていく様子を「蒙古襲来合戦絵巻」が色鮮やかに活写しています。

7月30日夜半暴風雨が起こりました。

後の世に大いに語られた神風ですが、特に江南軍の被害は大きく、出航から3カ月も異国の海上で過ごしていたため厭世気分が高まっていた元軍は、勝運尽きたとばかりに撤退していきました。

逃げ遅れた元軍の兵士は3万人とも10万人以上とも。

蒙古、漢人は殺され、高麗、唐人(南宋人)は捕虜にされ、職能で選別して従事させたといわれます。

弘安の役から11年後に届いた高麗国王からの国書には、高麗の捕虜が日本で収護・処養されていたことを感謝する記述があるそうです。(この文書の写しが金沢文庫に収蔵)



2度にわたる元寇を撃退した後、幕府を悩ましたのが御家人たちへの恩賞

侵攻を防いだといっても新たな所領を獲得したわけではないので、
命を懸けて働いた者たちへ分け与えるものがありません

これに不満を持つ御家人を中心に、幕府の内外に不穏な動きが活発になってきました。



1274年の文永の役、1281年の弘安の役において、高麗から至近距離にある対馬と壱岐は元軍の猛攻撃を受けて壊滅的な被害を受けました。

その際に元軍が行った両島人への蛮行は、後の世まで語り継がれるほどの残虐さだったといいます。

のちの世に「むくりこくりが来るぞ」という言葉を遺しました。

むくりは蒙古兵、こくりは高麗兵のことで元軍の暴虐を意味します。

子供が悪戯などをすると「むくりこくりが来るぞ」と言い聞かせたそうですが、無慈悲で残酷な状況を表す「ムゴイ」という言葉の語源も蒙古兵にあるといわれ、何世代にも渡って言い継がれてきました。

今も両島の各地に、元寇の犠牲者を弔う千人塚があり、慰霊する人々の姿が絶えません。





日本歴史







アメリカ歴史

アメリカ合衆国は、
1607年にジェームスタウンに
イギリスがはじめて殖民してから
19世紀の初頭にかけて
2世紀の間に
大きく変貌を遂げた。



https://ja.wikipedia.org/wiki/黒船来航


黒船来航(くろふねらいこう)は、
嘉永6年(1853年)に
代将マシュー・ペリーが率いる
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の
蒸気船2隻を含む艦船4隻が
日本に来航した事件。



1853年4月6日の朝
ブリガム・ヤングは
顧問であるヒーバー・キンボールおよびウィラード・リチャーズとともに,
ソルトレーク・シティーに
新たに建設される神殿の土台
を掘り終えた部分に立っていました






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